給料が貰えるのはなぜか?:社会貢献に効率的なシステムだから

ある企業の新人研修でこんなテーマで対話をさせたらしいです。

この研修では、3つのテーマで対話をして もらいました。「なぜ、この会社を選んだのか」、「給料はなぜもらえるのか」、「どんな社会人になりたいか/どんな仕事をしていきたいか」という3つです。
少しアタマを使わないと解が出ないのが「給料はなぜもらえるのか」という問いでしょう。これが今回の肝にあたる部分でした。

「なぜ給料をもらえるのか――」新入社員研修での問いへの手ごたえ|なぜ職場で人が育たなくなったのか|ダイヤモンド・オンライン

何故給料を貰えるのか?元記事にもあるように、その回答は無限に存在するでしょう。それは「働くとは何か」などの、論理ではなく哲学に関わる問題だからです。どんな答えでも間違いではありませんし正解でもありません。月並みな言い方をすれば「考えるのが正解」なのでしょう。ここでは現在の僕の回答を書いてみようと思います。

僕の回答

給料はタダの金と同義ではありません。色々な定義があると思いますが、ここでは「企業から社員に与えられるお金」ということにしましょう。その給料はどうして社員に与えられるのか。
給料の授受という関係の一端である企業から見ていきましょう。企業にとって給料とは何でしょうか。
そもそも企業の目的は「社会の価値を上げる」ことだと僕は思っています。例えば原材料を買い入れ、それを加工して価値を上げて社会に貢献する。それが企業のあるべき姿だと思っています。利益というのはその付随物でしかありません。
では、企業が一番効率良く社会貢献するにはどうすればいいでしょうか。その方法として最も一般的なのは、企業内の人間(社員)を使って社会の価値を上げさせることです。ですから、企業がその目的を達するためには、如何に効率良く社員に社会貢献をさせるかが重要な鍵となります。
そこで、企業は社員が社会貢献により多くを注力できるように、他の生活の一切を保障してやります。その最も簡単な方法は、手間と交換することのできる通貨を与えること、すなわち給料を与えるということです。給料を貰った社員は、生活の細かな作業から解放され、持てる力の多くを企業の社会貢献に使うことができます。給料というシステムが、企業の目的たる社会貢献を効率的に行わせるのです。
ではもう一端である社員から見て、給料とは何でしょうか。
僕は人間の目的の大きな一つに、やはり社会貢献があると思っています。その観点で行くと、個人が社会貢献を効率的にやるのであれば、最も貢献度の高い行動を行うべきということになります。一般的に、企業での仕事がその人にとって最も効率的に社会貢献に関わるため、人はなるべく多くの労力を企業での仕事に注力したいと考えるでしょう。すると、企業に対する給料の意味と同じに、社員にとっても給料を貰うことが社会貢献に最も近い方法となります。
まとめると、給料というシステムは企業も社員も社会貢献を効率的に行うのに適しているシステムだということです。ですから、給料を企業は払うし、社員は貰えるのです。
とても狭い仮定をおいて論を重ねてみましたが、この回答も給料の一つの側面を捉えているように思うのです。
(23:7)

ブログと本の違い:情報の組み立てを誰がするか

一般的にいって、ブログは本よりも読者・著者が割くエネルギーが少ない媒体だと思います。
読者の視点で言えば、ブログは基本的に無料であるため金銭を払う必要がなく、また分量が少ないことから読むための労力もいりません。電子書籍が生まれたらどうなるかは分かりませんが、本と違って物理的に場所を取ることもありません。これらのことから、読者は本に払うほどの注意をブログに払いません。
著者の視点からいくと、記述する文字数が少ないことから作成の労力が少ないほか、(著者にもよりますが)本ほどには記述したことに責任を負う必要がない風潮があります。著者側からも、本ほどにはエネルギーを割く必要がなく、実際割いていないことが伺えます。
かけるエネルギーが読者・著者ともに少ない結果、本とブログにはどのような違いが生まれるでしょうか。僕はこのエネルギーの差が、「情報を積み重ねるエネルギーの減少」という形で現れていると思います。
情報は積み重なることで知識となります。本はたくさんの情報を与えますが、情報がどう繋がっているのかということも伝えますので、情報を与えるというよりはむしろ「知識を与えるもの」だと考えられます。
それに対してブログが伝えるものは情報であり、それらの繋がりを伝えることを重視していません。情報は読者の持っている知識・情報とリンクすることで初めて知識となります。ですからブログの著者は、情報を知識の段階まで構造化するエネルギーを必要としません。逆に読者は、現在持っている知識とのリンクを行うだけで良い、情報を好きなように解釈すればいいので、こちらもエネルギーを抑えることができます。
ブログを書いたり読んだりするためにかけるエネルギーが低い結果、情報を知識として構造化する際のエネルギーをブログは持ちにくいということです。このことはブログが本より劣っているということではなく、使い方が違うというだけのことです。イメージ的には、本は脳の一部を提供するものであり、ブログは脳にパルスを与えるものである、といったところでしょうか。どちらを望むかによって使い分ければいいのです。
もちろん上記の話は一般的な話であり、該当しない本もブログもたくさんあります。ただ、このような使い分けを型として理解しておくと、自分が集めたい情報とそのための方法のミスマッチが起こりにくくなるかもしれません。
(32:8)

当ブログの目的:論理組み立て訓練のために書く

さて、前回までの3回で前準備が終わり、4回目にしてようやく当ブログの目的を書くことができます。当ブログの目的は「クリアな論理構造を描く練習をする」ことです。
僕がブログを書くときは、最初に文ではなく図を描き、それを日本語に直していく、という方法で書きます。もう少し具体的に言うと、ブレインストーミングしてノートに単語を書き連ね、それらを入れ替えたり線でつないだりして論理構造を作っていき、明確な論理構造が取れたところでそれを日本語としてブログに書いていきます。第1回で書いた通りのことをやろうとしています。
作業の前半部分である、情報から論理構造の組み立てというのは、僕のやりたい仕事の基礎部分になるところなのですが、やってみると未熟なところが多いです。例えば論理構造が充分に細かくなかったり、要素間のつながりが曖昧であったりします。そこで、ここの技術を成長させるために反復練習をすることにしました。
論理構造を紡ぐ練習であれば、ひたすら論理構造の組み立てをやっていれば良いように思うかもしれませんが、一旦文に翻訳してみると論理構造の欠陥が露見しやすいようなので、文に翻訳するところまでを練習の一環としました。

なぜブログなのか

一つは、人の目に触れることを意識することで質と量が担保しやすいからです。
最終的な文が少なくとも他人に伝わるように書かなくては、あまり効率のいい練習ができているとは言えません。最終産物の質を担保するためには人の目に晒されるという意識が重要です。また、僕は飽き性なので自律に任せていると書くのをサボってしまいがちです。産物を表に出すことで、一定の量を担保させることができると思います。
ブログとして書くもうひとつの理由は、日常的に本やブログから得た情報を咀嚼して自分の中で再構築する場所が欲しいからです。そのときに引用をするのが楽であるため、紙に書くよりもブログのような媒体に書く方が適していると考えました。
ただ、読者の目よりも自分の練習という方に重きをおいているため、読むためのブログとは言えないものになりそうです。

目標値設定

第3回で書いた通り、何かをやるのであれば目標値を設定した方がいいです。ブログを書く前段階に描く論理構造の質を評価する数値はなんでしょうか?
例えばそれはページビューではありません。他人が読みやすいブログを書くことは一つの目標ではありますが、僕はまだその段階にありません。線もまともに書けない人がいきなり絵画の練習をしてもあまり成長は望めません。
また、ブログの行数でもありません。たくさん書くことが目的ではありません。逆に、短く書いても意味が伝わるようにすることは重要ではありますが、今やってしまうとスカスカな論理構造でも誤魔化せてしまうという不安があります。これももっと後の段階でやることです。
今回の場合、最も適した数値は「構造化した論理を文に直す時間」なのではないかと僕は考えています。
最初に形成した論理が明確であれば、それを文として書く際も流れるように書いていけるはずです。逆に、文として書いている時に論理構造の欠陥が見つかるようでは、書きながら考える時間が必要になってくるため、書き終わるまでに多くの時間を費やすことになると考えられます。
パラメーターとして時間をとっていますが、早く書くことが目的ではなく、事前に作成する構造の質を文として書きなおす時間で評価しているという点に注意しなくてはなりません。

まとめ

このブログは、明確かつ緻密な論理構造を描くための訓練として書く。その指標として、「ノートに描いた論理構造をブログに文字として起こす時間」を用いる。
ということでした。前回の記事から文末にその時間を併記しています。(54:10)というのがそれです。これは文字おこしに54分、細部修正に10分かかったことを示します。細部修正を別にしているのは、一度流れるように書き、些末な言葉の乱れを最後に直す、という形式を目指しているからです。また、文字おこしを急ぐあまりにおかしな日本語を書かないようにするためのストッパーの意味もあります。
頭の中にあった内容なのに54分というのは非常に遅いです。論理構造が緩かったということです。とりあえず5月末までに(25:5)を目指そうと思います。それ以上の時間をブログに費やしていくのも考えものですしね。文を書くことに慣れる、ということも考慮すればそこまで難しくない目標かと思います(ちなみに前回の量をただ手打ちすると13分でした)。

(47:8)

何をするにも目標値を設定せよ

「痩せる」という目標と「6月末までに12 kg減量する」という目標、どちらが達成されそうですか?
そんな例からも明らかなように、目的を達成したいのであれば、目的を具体的な数値で表した「目標値」の制定が必要となります。具体化されていない目的は夢でしかありません。たとえ目的が曖昧模糊としたものだったとしても、それを分解し、しっかりと目標という数値で捕らえられるようにすることが重要です。

目的を数値化するメリット

1. 目的へ向かう方法の見直しが簡単になる。
「6月末までに12 kg減量する」という目標を立てたならば、毎日の自分の体重を量りましょう。体重をグラフにプロットすることで、現行の方法で問題ないのか、期限までに目標を達成できるのかを考えることができます。曖昧に「痩せる」という目標であった場合、毎日の体重をプロットしたとしても、現行の方法が正しいのかは「過去に比べて痩せたかどうか」でしか判断できないので、より良い方法を探すチャンスを逃します。
2. やる気があがる。
目標値が決まっていなければ、どうしたって妥協してしまうタイミングがやってきます。ポテトチップを我慢できなくなったときに背中を一押ししてくれるのが、明確に定まった目標です。「ちょっと食べても痩せていくことには変わりがない」と思っては食べてしまうかもしれませんが、「12 kgに届くには食べてはいけない」と思えば食べることを止められるかもしれません。
3. 成功でも失敗でも次に生かすことができる。
成功したときに目標値を大きく上回ったのであれば、それは次からもっと多くを望むことができるということでしょう。失敗したのであれば、目標値にどのくらい足りなかったのかで戦略が決まってくるはずです。いずれにせよ試行回数を増やすたびにアウトプットが良くなります。定性的に目標を捉えていると、「余裕だった」とか「惜しかった」といった曖昧な結論に落ちてしまい、フィードバックすることはできません。
目標値を設定することで、効率的かつ積極的に目的に向かうことができ、更にその過程から学ぶことが出来るようになるのです。

注意点

目的に対して目標値を立てる際には気をつけなくてはいけないことがあります。
1. 数値が目的にフィットしたものであること。
目的を達成するための指標として扱うものなわけですから、数値が目的にフィットしていないと頓珍漢な策をとってしまいます。
2. 数値が目的にならないようにすること。
数値でモノを測ると、どうしても良い値を取ろうとします。それ自体はいいことなのですが、それが目的になってしまい、本来の目的と関係のない方向に行ってしまうことは避けなくてはなりません。
どちらも言いたいことは、「目標というのはあくまで目的ありき」ということです。

まとめ

ということで、何でもやってみる際には指標をもって望みましょう
初めてやることだから相場が分からない、という場合でも、いったん目標を立てることは重要だと思います。後に調整するには基準となるものが必要ですから。また、目標値を立てることで、失敗が怖くなくなり積極的に挑戦することができます。次につながることが明確だからです。
色々なことに挑戦すること、挑戦の成功率をあげること、そしてそこから多くを学ぶこと。そのためには指標となる数値を見つけることが重要なんじゃないでしょうか。
(54:10)

アウトプットの質を上げる一番確実な方法は基礎練習

仕事にしろテストにしろ、アウトプットの質をあげる第一ステップとしてやるべきことは「基礎練習」です。それはたとえば、テンキーを高速に打つ練習であったり、四則演算の練習であったりします。
基礎練習はつまらないものですが、基礎練習をないがしろにしてアウトプットを向上させようと策を練ってもあまり効果はありません。逆に、基礎練習をするだけで、アウトプットの質は想像以上にあがります。基礎練習はアウトプットにかかる時間とエネルギーを下げ、質をあげることにダイレクトにつながっているからです。
そうとは分かっていても基礎練習はやりたくないものなので、もう少し具体的にそのメリットを考えてみましょう。

1. 処理時間が短くなることで、質を上げる時間が生まれる

基礎練習を行って処理能をあげれば、処理を行う時間を減らすことができます。
時間に余裕が出れば、その時間を使ってアウトプットの質をあげることができます。また、途中で間違えに気づいたときに処理をやり直す時間を作ることができます。テストを例に考えてみれば、見直しや解き直し、検算ができるほうが点数が上がるのは当然でしょう。
もちろん、仕事フローの見直しなど、基礎練習以外の方法でも処理時間を減らすことはできるでしょう。しかし、それらの見直しには他者が絡むことが多く、大掛かりなプロジェクトになってしまいます。それに対して基礎練習は自分一人で行うことができます。

2. 処理の安定性があがることで、質を上げやすくなる

基礎練習を行うことで、処理に慣れ、間違いを犯しにくくなります。
間違えを犯しにくくなれば、当然見直しやチェックにかかるコストが減るでしょう。また、ケアレスミスから来る問題が減ることで、システムやフローにおける間違いが見つかりやすくなり、アウトプットの質はどんどん上昇していくことでしょう。
一般的に仕事に掛ける時間やエネルギーを下げれば、アウトプットの安定性は下がります。しかし基礎練習は、練習そのものに時間がかかるものの、いったん練習した後は時間・エネルギーが下がり、安定性が上がるものです。

3. 処理にかかるエネルギーが少なくなることで、大きな視野をもてる

基礎練習で処理に慣れれば、処理するためのエネルギーは大きく下がります。
エネルギーに余裕ができれば、処理をしながら、頭の別の部分で処理以外のことを考えることができます。たとえばそれは、仕事をしながら同時に全体フローを見る視野を与えてくれます。
処理にかかるエネルギーを減らすには、通常他の人やコンピューターに仕事を代わってもらうという策がとられます。そのコストを考えると、自分の能力アップを目指す方が安くつくことが多いのではないでしょうか。

まとめ

基礎練習を行うことで、低コストで質の高いアウトプットを可能とする。
ということを幾らか分解してみました。
基礎練習をやる気になるには、以上のようにプラスの面を言うだけでなく、「面倒くさい」というマイナスな面をどうにかしなくてはいけません。
たとえばそれは、フィードバックを受けることができる環境を作ることかもしれません。基礎練習は、その練習そのものの速度・安定性もあげるため、いったんはじめてしまえば加速度的に効率があがります(一定値まで)。ですから、自らの上昇を実感できる環境を作れば、きっと練習を続けることができるでしょう。
自分のタスクの最小単位は何なのか、を見返してみてはいかがでしょうか。

クリアな結論を出すには、図を描きながら考える

世の中には説明がとてもうまい人がいます。そういう人の説明は、論理が綿密でありながらスルリと頭の中に入ってきます。逆に説明が下手な人の説明は、聞いていて何となく過不足があるように感じる上、複雑で理解しづらいものです。
この違いは、説明自体の良し悪しというよりも、説明より前の、物事を考えるスタンスにあるように思います。
両者をよく観察してみると、クリアな結論を出す人は考えるときによく図を描くことに気づきます。図といってもマンガのようなものではなく、円や四角の中に文字が入っているようなもののことです。彼らは情報の数だけ四角を作り、それらを線で結んだり、動かしたり、グループ化したりしながら結論を探っていきます。
この「図を描く」という方法には1.情報操作性、2.全体可視性、3.明確性という3つの性質でメリットがあります。

1.情報操作性:情報加工のコストが安く、直感的

彼らは四角を描くことにより、情報を一つの塊として扱います。一つの塊となった情報は、それぞれ独立に存在するようになるので、グループ分け、消去、結合といった加工が簡単にできるようになります。
比較対象として、文を書きながら内容を思考していった場合を考えましょう。途中で思考の構造が変わったとします。するとカット&ペーストで文を移動することになりますが、文をカットするとき、ペーストするときの両方で周りを地ならしする必要が出てきます。それは文の滑らかな流れを阻害しますし、無駄な労力を使うことになります。
また、一旦文として作成するとある程度シッカリしたもののように見えてしまいがちです。完成した文から論理的な甘さを見つけ出すのは高コストです。また、大局的な視点で観察すると実はいらない文章であっても、可愛いわが子をを消すのには勇気がいるでしょう。
それに対して、四角で囲っただけの情報は、独立性が高いため接合面の問題を考える必要もなく、つながりがクリアなので邪魔なものを見つけて消去することも簡単にできます。つまり、加工のコストが非常に安いのです。
また、その加工はとても直感的にできます。一つの塊に複数の情報が入っていると感じたときは、その四角を消して幾つかの四角に書き直し、それを配置しなおすだけです。現実世界に近く、とても直感的な操作です。

2.全体可視性:情報の取捨選択や、構造の見直しが楽

四角で囲った情報をそれぞれ線でつないでいくと、木のような構造になっていきます。幹として結論が存在し、幹から伸びる線の先には大きな題目が幾つかあり、それぞれの題目には小さな情報が紐づいている。それが数段階あるかもしれませんが、すべての情報が結論に収束して行く、そんな関係になっているはずです。
この構造が取れれば、情報のヌケがどこにあるのかがパッと見て分かります。それが結論に直接紐づく題目レベルで足りないものなのか、題目に紐づく情報のレベルで足りないものなのか、もっと小さなレベルで足りないものなのか。足りないレイヤーが分かれば,当該情報を探すのも簡単です。
逆に、苦労して集めた情報でも、木に組み込まれない情報は今回必要のない情報であることが明らかになります。苦労した分残したいですが、消さなくてはなりません。その決心をするためにも全体をみる必要があります。
また、全体が見えることでイビツなところがわかります。例えば、ある情報が2つの親情報に紐づいてしまっていることを発見するかもしれません。その場合は、情報を2つに分割するか、全体の構成を見直す必要があることが分かります。

3.明確性:結論がわかりやすい

最後は、考えるときではなく、相手に説明するときのメリットです。この「相手」には聴者としての自分も含まれます。目標を立てるときだって、わかりやすい目標であるほど長続きし、達成しやすいものでしょう。
1と2で見てきたように、図を書きながら考える方法は、適切な情報を取捨選択し組み合わせているわけですから、当然論理は洗練されており、納得の行くものになっています。
それと同時に、最終産物が木のような図であるため、説明に適切な図のプロトタイプが考え終わった時点で完成しています。適切な図があれば、相手も概形をすぐに把握できるので、内容理解が速く正確になります。

名刺の裏一枚に書ききれないアイデアは、大したアイデアではない

アメリカの心

という言葉がありますが、良い結論は単純で分かりやすいものです。

まとめ

思考をする際に図を用いることで、直感的に情報を扱いながら、統一感のあるシンプルな結論に達することができる
ということでした。この手法は、他人の話を聞く時にも通用する話だと思います。例えば、「誰かの話す論理や読んでいる本に対して批判的な目が持てない」という悩みは、図を描きながら話を理解し、その全体構造を見ることができれば自然と解決するはずです。
思考訓練は全てそうですが、繰り返しによって速度と正確性が上がっていくものです。慣れてくれば、頭の中に図が描かれるのでしょうし、図を紐付けていく速度・正確性も上がっていくのでしょう。それまでは、意識的に図を描き、試行錯誤をしていく必要があるかもしれません。
その訓練の一環として、夏くらいまでブログを書いてみます。できれば週1ペース。