論理にこだわり続けても、大きなビジョンを失うことはない

ブログを書き始めてから1週間ちょっとが経ちました。論理構造の構築の練習として書いているブログですが、組まれる論理構造の正確さの指標である、文章化速度も徐々に上がっていて明確に効果は出ていると思います。実際の生活でも、会議などで情報をまとめあげていく速度が上がっていることを実感しています。
しかし、同時にマイナスな変化も感じることがありました。それは、論理構造作りに固執するあまり、まったく別ベクトルの考え方を発想できなくなってきたことです。イメージとしては、現在の業務の改善や拡張は高品質で考えられるようになったものの、完全に新しいビジネスプランを立てられなくなった、といった感じでしょうか。フレームワークに強くなった分、自由な発想が出なくなってきたのです。
果たして、この論理訓練を続けてもいいものなのでしょうか?自由な発想をする能力を失わないためには訓練は中止した方がいいのでしょうか?
まず、現状の自由な発想が浮かばなくなった件についてですが、これは訓練を続けると共にすぐに解決する問題だと思います。
そもそも自由な発想が浮かばなくなった理由は、論理構造を立てることが楽しいため使いすぎていることと、その構造構築が遅いため与えられた時間のほとんどを構築に使用してしまうことの2点です。前半については、論理構造構築が自然にできるようになれば、濫用することは無くなるのではないかと思っています。剣豪になれば無駄に剣を振るわなくなるようなもので、使うべきときと使わないべきときの判別がきちんとつくようになると思います。後半については、論理構造構築練習の結果、その速度が上がればいいだけの話です。ですから、どちらも充分な練習の後には解決する問題で、いずれ自由な発想ができるようになると考えられます。
更に、訓練を続けた場合には自由な発想を行うことがむしろ簡単になると考えられます。
現在行っている訓練は論理構造の組み立てに関するリソースを少なくすることを目的にしています。訓練の成果が出て、組み立てにかける時間とエネルギーが減ったあかつきには、それだけ多くのリソースを別ベクトルの発想に使うことができるようになります。
逆に、訓練をやめてしまったからといって自由な発想が産まれるようになるというわけでもありません。
自由な発想というのは、完全にゼロから産まれるものではなく、何かのキッカケで考えていたものが大きく構造変化することで産まれるものです。論理構造をそもそも立てられないようであれば、構造変化も起こりようがありません。いずれ論理構造が必要なのであれば、その訓練を辞めてしまうのはマイナスにしかなりません。
以上のことから、自由な発想を行うことに関しても、訓練を引き続き行うことが正しい道だという結論になります。ただ、この訓練とは他の訓練を行うことで、自由な発想が促進されることも考えられますので、新しい方法の探索もできたら行いたいと思います。
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