実際に動くことは、考えることよりも多くをもたらす

論理構造構築を緻密に行えるようになろう、というのがこのブログの趣旨でしたが、その成果が出ていることを、日々実感しています。例えば、仕事用のメールが簡潔かつ明瞭になっていることが明らかに目にとれます。こんなに早く成果が現れるとは正直予想外だったのですが、論理構造の緻密度に関するパラメータとした論理構造を文字化する速度も予想を大きく上回る改善を見せており、今回の実験はかなりの成功を収めそうです。
特に今回の実験で面白かったことは、実践からはシミュレーションからよりもかなり多くのものを得られると実感したことです。
ぼくは、論理に関する本は幾らか読んでいたし、大学院で論理的なワークもしてきたので、論理的な文章とはどういうものかというイメージはありました。しかし、月ごとの報告書とか修士論文とかは書いていたものの、それはある程度のフォーマットが最初からあるもので、実際にゼロから論理的な文章を書いた経験は薄かったのです。
そんな中、今回の実験を行うことで、論理的な文を書く基本を身につけるのは勿論、当初予定していなかった効果を得ることができました。
一つは、実際に行動することで、自分のイメージにはヌケがあることを認識できたことです。例を出すと、論理構造を文書化するときに導入部でここまで困るとは思っていませんでした。一度論理構造を組み上げてしまえばあとは文書化するだけでいいと思っていたのですが、その中の簡単なワークであると思っていた「書き出し」にあそこまで時間をとられることになろうとは……。そこで困ったぼくは昔読んだ本を引っ張り出し、SCQAプロセスという導入部のフォーマットを手にいれたのでした。
もう一つの、実際に行うまで気付かなかった利点は、情報に対するアンテナが高くなり感受性も上がることです。例えば、人は「考え方」を手に入れたとたん頭のよくなる生き物である - teruyastarはかく語りきには論理の組み立てを行う最初のステップに便利なダブルイメージマップというフレームワークが紹介されています。以前のぼくであれば、この記事に全く気を払わなかったでしょうが、今回の実験を行うに際し「考え方」に注目していたのでアンテナに引っかかりました。今はこれを実践しているので論理構造を立てるのがとても早くなりました。日々試行錯誤しているからこそ、新しいものに触れたとき、それを取り入れようとするのです。
割かなくてはいけないリソースのことを考えると、どうしてもシミュレーションで終わらせたくなります。しかし、愚直に物事を実行することは、頭の中で考えているだけではわからない自分の思考の外にあるメリットを持ってきてくれるものだ、という話でした。まだまだ論理構造の組み立ても甘いし、フレームワークを使いこなせてはいないので、もうちょっとこの練習は続けます。

(32:5)

注意書きには「何ができない」ではなく「何ができる」と書く

他の人と同じスペースで仕事を行っていると、注意書きを書かなくてはならないことがあります。古典的には「ペンキぬりたて注意」などが挙げられます。
注意書きは短くないと読んでくれませんが、それと同時にキチンと情報を伝えなくてはなりません。これは意外と難しいことです。読者が必要な情報を簡潔に伝えることが要求されるからです。たとえば以下の注意書きを見てください。

申し訳ありませんが、この機械を10時間占有します。

この注意書きは簡潔で誰もがちゃんと読むでしょうが、あまり意味のある情報ではありません。この機械がいつから使えるのか読者は分からないからです。この注意書きは読者の視点に立っていないと言わざるを得ません。
しかし、何となくで注意書きを書くと、こんなものを書いてしまうものです。注意書きを書く際には何か簡単なルールが必要なのです。では、どんなルールを自分に課せば分かりやすい注意書きを書くことができるでしょうか?
そのルールの一つとして、「何ができない」という書き方ではなく、「何ができる」という書き方をすることが挙げられます。そのルールに従うと、先程の例の場合には

現在使用中。21:00から使用できます。

という書き方になるはずです。
この書き方は、こちらが伝えたい情報ではなく、相手が知りたい情報を伝えています。書き手目線ではなく、読み手目線で書かれているのです。『この機械は21:00まで使えません。』という書き方も同じことを伝えていますが、結局その注意書きから読者が知りたい情報は21時から使えることです。読者が知りたいのは、一般的に「何ができないか」ではなく「何ができるか」なのです。
また、この書き方はポジティブな印象を与えます。語感の問題ではありますが、制限されていると感じを無駄に与える必要はありません。コップに半分の水が入っているときに、「半分しか入っていない」と書くか「半分も入っている」と書くかの違いのようなものです。集団生活をしている場なのですから、ネガティブな言葉をあえて使う必要はありません。
もちろん、以上の話は「立ち入り禁止」などの注意書きには使えるものではありません。もし何時から何時の間は入れるなどの制限があるのであれば「○時〜○時の間は入れます」と書くべきでしょうが、恒常的に立ち入り禁止であるのであれば、読者が知りたい情報も「立ち入り禁止」であることだけです。「何ができるか」という情報が無いのですから、「何ができない」と書くしかありません。
情報を伝える際は常に、自分が伝えたい情報ではなく、相手が知りたい情報を伝えるべきです。しかしそれを無意識的に行うのは難しいです。ですから、今回のようなルールを自分で決めることで、意識的にやる必要があると思います。

(35:5)

人を口説くときは「口説けたこと」を前提に話を進める

人生において、人を口説くことは多いです。単純に異性を口説くこともあれば、仕事のパートナーになってくれと口説くこともあるでしょうし、一緒にご飯を食べに行こう、パーティーに行かないか、など幾らでも人を口説くタイミングはあります。
しかし、口説くというのはなかなか難しいものです。なぜなら、口説くということは相手に決断をさせることだからです。決断にはリスクがつきものですから、多くの人はそう簡単に首を縦に振りません。
では、どのようにすれば人を口説ける確率が上げられるでしょうか?
非常にシンプルな答えですが、「口説けたことを前提に話を進める」ことが有効です。既に相手が首を縦に振ったものとしてどんどん話を広げていってしまうのです。相手も最初はちょっと面食らうかもしれませんが、だんだんとこちらの意見を何となく聞いてしまうようになります。以下で簡単に理由を述べましょう。
まず、口説けたことを前提に話を広げていくということは、聞き手が気持ちよい話題展開をするということです。
相手が決断したときの話をするのですから、必然的にその人の生活がどうなるのかについて話すことになります。つまり、相手を中心とした話をどんどんしていくことになります。ほとんどの人は自分中心の話を心地よく聞くものです。それだけ自分の価値を高く相手が見てくれていると思うからです。ですから、聞き手はこちらの話を心地よく聞くことができます。
心地よく聞いている内に、聞き手はこちらの話がどうやら自分のためになるようだぞ、と思います。
話の内容は具体的な未来の話です。自分にどんなメリットがあるのか、どんなリスクがあるのか。この決断をすると自分の生活はどうなっていくのか。この方法で話すと、ただ「現在ある情報を全て提示する」というのよりもよっぽど明確かつ簡単に相手は自分の未来を描けます。未来の形が聞き手にスンナリと入ってくるのです。それが良いものであれ悪いものであれ、本来考えなくてはならないことを代行してやってくれて、決断をしやすくしてくれる。これは自分のためになる情報だと思うでしょう。
段々と楽しんで聞いている内に、聞き手は話を断りにくくなっていきます。
こちらが肯いたものとして話し手はドンドン話を重ねていきます。気持ちよく耳を傾けている内に、いつの間にか積み重なった話題の量は大きく膨れ上がってしまいました。今から大前提である「自分が首を縦に振ったという仮定」をひっくり返して全てを無に返すというのはなかなか気がひけるものです。ちょっとした提案なら、もう既成事実だと思ってしまった方が楽なような気がしてきます。
こうして、話を聞き終わった頃には、口説いていた内容が既に決まったことのような気がしてきます。ほとんどの決断は意外とどっちでもいいものなので、聞き手は流されてしまいます。もちろん、それでも反対されることは多いでしょうが、ただ自分が言いたいことを伝えて相手に判断を委ねるよりも、よっぽど確率高く相手を「うん」と言わせられるでしょう。
(26:8)

問題点を発見するには:全体を規定し、それを半分にしていく

僕たちの世界には様々な複合体が存在します。生活もそうですし仕事もそう、人間の身体やパソコンだってそうです。通常これらは何の問題もなく機能しますが、時に複合体に異常が生じることがあります。そんなとき、僕たちは複合体の修復を試みますが、大抵の問題は複合体全体というよりも、ごく一部の部品に問題があります。例えば、テレビの故障はネジ一本が緩んでいただけ、ということが多いです。
ですから問題が起こると、僕たちは複合体の中から適切に問題を抽出しようとします。複合体全てを対象にした修復は高コストだからです。しかしながら、複合体が大きければ大きいほど、問題を抽出することは難しいです。場当たり的な検証方法ではいつ問題点を見つけられるかわかりません。
問題点の効率的な発見にはどのような方法が適しているのでしょうか?

ここに8枚のコインがあります。この内7枚は重さが1.0 gですが、1枚だけ0.9 gのコインが存在します。天秤だけを使ってこの軽い1枚を見つけるには最大で天秤を何回使えばいいでしょうか?

よくある数学クイズです。答えは2回です。最初に3枚ずつ天秤に載せ、吊りあったら余った2枚を天秤にかける。吊り合わなかった場合は、軽かった皿に乗った3枚の内1枚ずつを天秤に乗せることで答えは見つかります。このパターンの問題は全て、コインを天秤の両皿と量らない場所の3箇所に等分した場合に最速になります。
この問題が示唆するように、問題点を把握する最良の方法は「全体を規定し、それを等分するように場合分けしていく」という方法です。
ステップ1:全体を規定する
現実問題では全ての可能性を考えることは不可能です。ビルの安全な構造を考えるときに宇宙人が攻めて来る可能性までは考えられません。ですから、最初に全体としてどこまで考えるかを決める必要があります。このことには、思考するときに漏れを生じさせない*1というメリットが有ります。
ステップ2:全体を等分するような試行をする
全体が見えたら、それを等分するような方法を考えます。完全に等分するというのは難しいですが、最初に天秤に1枚ずつコインを乗せるようないい加減な等分ではいけません。「この動物はなんでしょう?」と聞かれたら「たぬき?」って聞く前に「陸上動物ですか?」などの聞き方をした方が有利なのは明らかでしょう。また、等分するときにはダブリがあってはいけません。等分して捨てられた方にも答えがあるのでは意味がないからです。一度試行を行えば、次の試行では捨てたもののことを考えないようにしなくてはなりません。
ステップ3:特定するように試行する
ステップ2を繰り返して問題点が含まれる領域を絞っていきます。ある程度までいったら、特定していく方に思考を切り替えましょう。選択肢が3つしかないのに、それを半分にしようとするのはナンセンスです。ついつい直感的にステップ3を最初からやりたくなってしまいますが、特定する質問は最後に持ってこなくてはなりません。ステップ2を繰り返すことが最速で答えを絞り込む方法であり、客観的に問題を捉える方法だからです。
以上の話は、いわゆるMECE(Mutually Exclusive and Collectively Exhaustive)「モレなくダブリなく」の話ですね。よく言われる言葉ですが、なかなか実行できないものです。「全体の規定」「等分するような質問」「特定していく質問」の3つを意識的に行うことで、その実行確率をあげ、問題解決をスムーズに行っていきたいと思います。
(34:5)

*1:もう少し言うと漏れをどこまで許容するか決める

論理にこだわり続けても、大きなビジョンを失うことはない

ブログを書き始めてから1週間ちょっとが経ちました。論理構造の構築の練習として書いているブログですが、組まれる論理構造の正確さの指標である、文章化速度も徐々に上がっていて明確に効果は出ていると思います。実際の生活でも、会議などで情報をまとめあげていく速度が上がっていることを実感しています。
しかし、同時にマイナスな変化も感じることがありました。それは、論理構造作りに固執するあまり、まったく別ベクトルの考え方を発想できなくなってきたことです。イメージとしては、現在の業務の改善や拡張は高品質で考えられるようになったものの、完全に新しいビジネスプランを立てられなくなった、といった感じでしょうか。フレームワークに強くなった分、自由な発想が出なくなってきたのです。
果たして、この論理訓練を続けてもいいものなのでしょうか?自由な発想をする能力を失わないためには訓練は中止した方がいいのでしょうか?
まず、現状の自由な発想が浮かばなくなった件についてですが、これは訓練を続けると共にすぐに解決する問題だと思います。
そもそも自由な発想が浮かばなくなった理由は、論理構造を立てることが楽しいため使いすぎていることと、その構造構築が遅いため与えられた時間のほとんどを構築に使用してしまうことの2点です。前半については、論理構造構築が自然にできるようになれば、濫用することは無くなるのではないかと思っています。剣豪になれば無駄に剣を振るわなくなるようなもので、使うべきときと使わないべきときの判別がきちんとつくようになると思います。後半については、論理構造構築練習の結果、その速度が上がればいいだけの話です。ですから、どちらも充分な練習の後には解決する問題で、いずれ自由な発想ができるようになると考えられます。
更に、訓練を続けた場合には自由な発想を行うことがむしろ簡単になると考えられます。
現在行っている訓練は論理構造の組み立てに関するリソースを少なくすることを目的にしています。訓練の成果が出て、組み立てにかける時間とエネルギーが減ったあかつきには、それだけ多くのリソースを別ベクトルの発想に使うことができるようになります。
逆に、訓練をやめてしまったからといって自由な発想が産まれるようになるというわけでもありません。
自由な発想というのは、完全にゼロから産まれるものではなく、何かのキッカケで考えていたものが大きく構造変化することで産まれるものです。論理構造をそもそも立てられないようであれば、構造変化も起こりようがありません。いずれ論理構造が必要なのであれば、その訓練を辞めてしまうのはマイナスにしかなりません。
以上のことから、自由な発想を行うことに関しても、訓練を引き続き行うことが正しい道だという結論になります。ただ、この訓練とは他の訓練を行うことで、自由な発想が促進されることも考えられますので、新しい方法の探索もできたら行いたいと思います。
(24:5)

決断を保留するときは必ず期限を切ろう

生きていると色々と決断をしなくてはなりません。昼ご飯を選ぶとか、服を買うとか、そんな小さな決断もあれば、今後の自分の進路に関して決断をしなくてはならないこともあります。
そういうときに「保留など無駄だ。即決しろ」という声もありますが、それは暴論でしょう。なんでもかんでも思ったままにやっていてはリスク管理などできたものではありません。保留する時間は多かれ少なかれ必要です。
しかし、保留してばっかりでもダメでしょう。保留する理由は大きく2つにわかれると思います。「もっと情報を集めるため」と「他の選択肢がなくなるリスクを管理するため」。これらは決して間違っていませんが、そのために長く決断を保留することは間違っていると僕は思います。
まず「もっと情報を集めるため」に保留をする人がいますが、その場合は情報の量を区切るべきです。すべての情報は集めることはできません。
決断をするときに集める情報というのは、自分に関する情報と環境に関する情報だと思います。しかし、自分も環境も日々変わっていくものです。ですから、情報を集めている内に集めるべき情報も変わっていってしまいます。それでは永遠に情報集めは終わりません。また、その決断がうまくいく可能性を上げる情報がなんなのかは、実は決断した後にしか分からないことが多いです。幾ら考えても仕方の無い領域にある情報というのは存在するのです。
かといって、全く情報を集めないのはナンセンスです。ですから、期限を切って短いスパンで情報を集めるのが、決断に関する情報集めには重要です。すると、どういった情報を集めるのかということにも自然と気が向きます。

意思決定をするときには、いますでにある選択肢を狭めてくれる情報だけが役立つのだ。

仮説思考 p.36

他に「選択肢を狭めるリスク管理のため」に保留する人がいますが、その場合はリスク管理に必要以上のコストを払っていないか注意すべきです。
何かを選択することは、確かに他の選択肢をなくすことにつながるでしょう。しかし、本当に自分が思っている程に選択肢はなくなるものなのでしょうか?僕はそんなことはないように思います。確かに、決断は選択肢を狭めるものなので冷静に考える時間は必要でしょう。ですが、どのくらい選択肢がなくなるかは実際やってみなきゃ分からないところも多いので、必要以上に考えても仕方ありません。
同時に、時間経過というものは選択肢を減らすことは確かなので、遅い決断は選択肢を狭めます。逆に、早い決断はその分早い修正を許します。早く決断する方が、選択肢を狭めるリスクを管理できているという見方もあるのです。
以上のことから、どちらの理由をもって保留する場合にも、その保留は短い時間であるべきだと言えます。しかし、保留は心地いいものなので「いずれやる いずれやる」と思っていても、なかなか決断しなくなってしまうものです。ですから、決断のリミットとなる期限を決めてそれを順守すること。それが間違いや後悔を起こしにくい決断となるのではないでしょうか。
(23:7)

改革者は、あえて自分の改革案の欠点を見つけようとする

現行の制度に問題があることを認識した場合、ただ悪いところをあげつらうだけでなく、その代替案となるものを挙げることが求められます。代替案は現在の制度の問題を解決すべく幾つものメリットを挙げられるものとなるでしょう。しかし、改革を成功させたいのであれば、「あえて改革案のデメリットを探しだし、理解すること」をお奨めします。
まず、改革案にかかるコストを正確に把握していなくては、改革はスタートすらしません。
改革案は兎角良い点が目につきがちです。しかし、現行の制度の変更を行うということは、多大なコストと不安定性を生むリスクを背負うということです。これらを背負い込むだけの意味が改革にあるのかどうかが明確じゃない限り、制度改革は認められません。どれだけのリスクを負うのかが見えていない(もしくはリスクが0だという)案を上の人が承認してくれることはほとんどありえません。ですから、改革案のなるべく正確なリスクを調べる必要があります。
また、代替案が元の案の良い点を消してしまっていないかチェックする必要があります。
現行の案のように、スタンダードとなっているものに対しては良い点よりも悪い点の方が目につくものです。ですが、その悪い点は何かしらの良い点とトレードオフになっているかもしれません。ですから、悪い点を修正するだけの改革案では、元の案の悪い点と共に良い点まで失ってしまう可能性があります。改革案が元の案の良い点を受け継げているかどうか、受け継いでいないならそのマイナスをどう補填するか、を考えない限り、改革後にマイナス面がどんどん出てきて改革の意味を問い直されることになるでしょう。
更に、代替案の効果を評価するためのシステムを作らなくてはなりませんが、それには代替案の結果失われるものも計測できなくてはなりません。
元の方法ではマイナスであった点だけを計測すれば、確かに改革の大きな成果が見られるでしょう。ですが、それは数値だけの結果であり、実際の人間が感じる改革の意味とはかけ離れたものになります。何故なら、改革によって失ったものもあるはずだからです。失点も含めた上の評価をすることで、改革の本当の評価を行うことができます。本質的な評価をして改革の本当の価値を明らかにすることができれば、改革の受け手たちも納得をするでしょうし、その経験は次の改革を行うときに追い風になるでしょう。

まとめ

改革案の悪い点を見つけろといいましたが、それは改革へのハードルをあげ結果的に改革に対して消極的にさせよう、という魂胆ではありません。むしろ、世界や環境は変わっていくんですから、改革案を出していくのが当然だと僕は考えています。
しかし、ただ美味しいところだけに着目した改革は、コストに比べて実入りが少なく、多くのものを傷つける結果に終わります。また、その評価方法がプラス点ばかりを挙げるようでは、改革の受け手に騙された感を残します。それはむしろ改革への考え方をネガティブにさせ、だんだんと硬直化した組織を作ることになつながってしまうと思うのです。
改革をするということは、正解である状態にするのではなく適応した状態にするのだということ、そして適応すべき環境というのは時代と共に変わっていくのだということ。こういったことを理解して、未来までの視点を持った改革こそが本質的な改革案と言えるものだと思います。

(35:10)